何を考えているのやら
んー、なんか自分の暗いところはなお暗く、しかしそれも含めた形で制御できるようなできないような。
今後文章を書いていくとして・その理由の一つは嫉妬やら羨望やらのコントロール。自分で近いものを靴って居る間はかなり苦痛が軽減されるはず…。このあたりで落ち着くのかな。
なんかどっかで方か事件とかあって…。相変わらずニュースでのコメントとかつらいんですけど。変な感じですよね…世間に理解しやすい形での状況が揃っていれば世の中は同情的になり、しかしその言葉の節々に確実に他の世界の出来事ってのがつきまとってて。事態が発生している以上はどんなことであってもそれに至るしかない原因があってしかるべきというのが論理的だと思うのですが、それでは駄目なんでしょうか。他の人の状…というか結果?を自分のものとして想像することはできたとしても…、その相手の人格そのものまでは防衛ではじかれるものなんでしょうか。でも人の成り立ちの重要な要素であるその部分を、いかにして仕方なく・論理的接続に準じてそうなっていったのかを覗いて人って捉えられるもんなんでしょうか。
自分が生きることと他人との折り合いのポイントの置き方なのかなあ…。
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